軽井沢ジャムの歴史
写真提供:軽井沢観光協会
1886(明治19)年カナダ・トロント生まれの宣教師アレキサンダー・クロフト ・ショー氏が軽井沢を訪れました。
そして、その美しい自然と清涼な気候にすっかり魅了され、彼は自分の家族や友人達と避暑に訪れるようになりました。
ショー氏の友人のとして多くの外国人宣教師たちが軽井沢に別荘を求め、毎年避暑にやってくるようになりました。
このようにして、軽井沢を楽しみにやって来た外国人宣教師たちは軽井沢の地元の人々にキャベツやレタスなどの西洋野菜の栽培方法を指導したり、パンのつくり方をおしえるようになりました。
初代・中山丈平は外国人宣教師からジャムの製法を学び、1905(明治38)年に「中山のジャム」を創業いたしました。
洋菜と農産加工の中山農園
農園初代の丈平さんが朝穫り野菜を天秤で担ぎ、三ツ谷から毎日軽井沢へ運んだのは、明治三十年代前半であった。朝市感覚の荷は避暑客の人気を得て、三十八年には旧軽井沢に販売所を置くまでになった。外人からは店頭の品以外の洋菜や加工品・木の実などの要望がでた。セロリ、チシャなど洋菜栽培を教えてくれたのは、新渡戸博士とメリー夫人であった。また、フランス生糸貿易商ボアンカレーが、菓子クルミ集荷を中山さんに依頼した。このことが、和村(現東部町)一帯の西洋クルミ産地化の切っ掛けとなった。着想と創意は木の実類のジャム、ジュース、ピクルス、クリームコーンなど、直営工場の加工品作りにも発揮された。ドイツ、スイス人はピクルスなど酸っぱいもの好き。アメリカ、イギリス人は甘いもの好き、要望に合わせての多くの製品作りがされた。缶詰め大手のデルモンテの技師が、指導の時「ほかの日本人のように偽物や混ぜ物をしたら教えないぞ」といったことを教訓に、本場並み品質の手作りという。
資料:御代田町誌